第九の第三楽章
昨日はベートーベン交響曲第九番、いわゆる第九の演奏会があった。
市民レベルのオーケストラと合唱団が練習の成果を発表する場。
私は全くの初心者なのだが、高い音が出せるようになりたい一心で、合唱団のソプラノパートを歌っている。
合唱は、第四楽章で一緒に演奏する。
合唱も演奏なのだ。
ベートーベンの第九では、人の声もひとつの楽器としてとらえられているらしい。
指導する先生達がよくそう仰る。
たしかに、ソプラノのムチャクチャな高音で伸ばす部分など、人間の声というよりは、天に届くような透き通った「音」を表現したいのが、よくわかる。
これまで合唱部分を歌うことで精一杯で、他の部分に耳を傾けて来なかったけれど、今回、オーケストラのみなさんが奏でる第三楽章にとても気持ちが引かれた。
これまでは、眠くなって目を閉じてしまいそうになるのを必死でこらえていた。
眠くはなるのだけれど、この気持ち良さは何だろうと、音楽の中に全身を埋没させて感じてみた。
春、暖かさ、柔らかな光、花、蝶、小鳥、青空…
そんなイメージが湧いて来た。
これって、「楽園」なのでは?
暖かな柔らかさに包まれて、うっとりまどろむ。
赤ちゃんがお母さんに抱かれて、幸せそうにまどろんでいるような。
あー、この地上に楽園はあったんだね。
求めなくても、ここにすでにあったんだね。
第三楽章を聴きながら、そんなことを感じていた。
ベートーベンは、地上の楽園がすでにあることをこの三楽章で表していたのかもしれない。
オーケストラのみなさんの演奏が、ここまで素晴らしく上達したことにも感動した。
そして、怒涛の第四楽章へと続いていくわけだが、第四楽章の「歓喜」は、その楽園に私達がすでにいることの喜び、その楽園を創り出してくれた神への感謝を、人間の「歓喜」で表現したのではないかと、初めてそう感じて、高揚感とともに歌うことが出来た。
第九は第三楽章がキーなのかも。
ベートーベンが一番表現したかったのは、第三楽章なのかもしれない。
第一と第二も、音に埋没して聴いてみなくちゃ❗️