マイソウルヒストリー My Soul History

流れにゆだねてソウルのルーツを辿る旅

斎王「規子」さま②

斎王「規子」さまについてネット検索してみた。

父は第62代の村上天皇、母は斎宮女御(さいぐうのにょうご)と呼ばれた徽子(よしこ/きし)女王。

この時代の女王とは、天皇の娘ではあるが内親王として認められていない者、あるいは、天皇とならなかった皇族の娘を指すようである。

徽子女王は後者である。醍醐天皇の孫にあたる。

徽子女王については、ネットでもいくつか記述が出て来た。

第61代の朱雀天皇のとき7歳で斎王に選ばれ、16歳で任を解かれた。

その後、村上天皇の女御となり、第4皇女である規子内親王をもうけた。

斎王を務めたのちに女御(中宮に次ぐ天皇の妻の位)となった女性は徽子女王だけではないようだが、斎宮女御と呼ばれる女御はこの人を指すらしい。

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和歌の名手であったらしく、三十六歌仙の一人であった。

 

規子内親王は、円融天皇のとき26歳で斎王に選ばれている。

斎王の慣例からすると、かなりの高齢である。

先代の斎王、隆子さま(天皇の正妻である中宮の娘)が斎宮で死去したために選ばれたようである。

規子さまが斎宮に入られたとき、なんと、母である徽子さまが同行し、母娘は一緒に斎宮で暮らしたという。

前例のないことであったようだ。

そこに実際にどんな物語があったのか、ネット検索では分からなかったが、母は、あの源氏物語六条御息所のモデルになったとも言われている。

葵の上を嫉妬で呪い殺した、あの六条御息所である。

 

円融天皇天皇を退くまで、規子さまは9年間、斎王を務めている。

斎王の務めを終えた翌年に母の徽子さまが亡くなり、そして、その翌年に、母の後を追うように規子さまも亡くなっている。

 

徽子さまは、規子さまの他に皇子を産んでいるが、その皇子はすぐ亡くなっている。

男尊社会のこの時代に、皇子という後ろ盾もなく生きて行くには、この母娘が強い絆で結ばれ、助け合って生きていかなければならなかったのであろうと思う。

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↑自宅に飾ってある鳥居禮さんの絵

 

余談だが、規子さまの二代前の斎王に選ばれた輔子さまは、村上天皇の第七皇女であり、規子さまの4歳年下の異母妹である。

冷泉天皇の即位に伴って15歳で斎王に選ばれたが、斎宮には赴任していない。

冷泉天皇がすぐに退位したためなのだろう。

 

中学のとき、日本史は苦手だった。

漢字の人名を覚えるのが苦痛だった。

高校では、大学入試に日本史を取らないことに決めていたので、試験はいつも赤点すれすれだった。

自分がこうして、平安時代の皇族の出来事を調べるようになるとは思ってもいなかった。