斎王はチャネラー①
先日、斎宮歴史博物館で見つけた自分と同じ名前の斎王「規子」さまのことが、ずっと気になっていた。
26歳で斎王に選ばれたということは、その年齢まで未婚であったということ、つまり男性を知らなかったということだ。
女性は10代半ばくらいで嫁いでいた時代であろうから、かなり珍しい存在である。
そこにどんな理由があったのか、つい、想像したくなる。
(絵は明和町HPからお借りしました)
母の徽子さまは、ネット検索でもヒットするほど歴史上でも有名人である。
和歌の名手で、村上天皇の寵愛を受けて規子さまを授かった。
規子さまは、村上天皇の第四皇女にあたる。
当時の慣例を考えれば、もっと早くに斎王に選ばれて然るべき皇女であるのに、なぜ26歳まで選ばれなかったのか。
母である徽子さまが手放すことを拒んだのかもしれない。
というのは、規子さまが斎王に選ばれたのは、先代の斎王である隆子さまが、当時猛威をふるっていた疱瘡にかかって斎宮で亡くなったからである。
突発的な出来事で、仕方なく選ばれた斎王なのかもしれない。
そして、母である徽子さまは、円融天皇の制止も聞かず、規子さまに同行して一緒に斎宮で暮らしたというから、やはり、母が娘を手放すことが出来なかったのであろう。
規子さまはどんな性格だったのだろう。
母に守られて男性が寄り付かない暮らしをしていたとすれば、寂しかったかもしれない。
強い母の言いなりだったのかもしれない。
内側に向かう性格だったかもしれない。
自分の内面と向き合うことが好きだったかもしれない。
そんな勝手な想像をしてしまう。
数日前にこんなことを考えていたからか、この土日に参加したチャネリング講座で、規子さまが現れた。
続きはすぐ。